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      |  1.国土と民族 | 
    
    
      
      
        
          
             リビアは、アフリカ大陸のほぼ中央に位置し、その国土は地中海のシドラ湾周辺からサハラ砂漠にかけて広がっています。面積は176万平方キロメートルで、日本の約4.6倍です。国土の90%以上が平坦な砂漠であるため、気温は高温で乾燥しており、地中海沿岸部を除き年間降雨量は200mm
            以下です。 
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                    2000年のリビアの人口は約529万人でトリポリに145万人、ベンガジに75万人が集中し、その他ミスラータ、ザーウィヤ、ホムス等の地方都市に分散しています。人口の92%がアラブ人、その他原住のベルベル人がいます。キリスト教徒も僅かながら存在するものの、ほとんどがイスラム教徒で、その中でも97%がスンニ派です。 
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      |  2.国の成り立ち | 
    
    
      
      
        
          
             リビアの土地には、新石器時代、地中海人とアフリカ人が住んでおり、古代エジプトとの間に密接な関係があったことが明らかとなっています。紀元前1000年頃よりフェニキア人が定住しはじめ、その後紀元前6世紀末には現在のチュニジアに当たるカルタゴ帝国の支配下に置かれました。紀元前1世紀にはローマ帝国の属州の一つに組み込まれたがその治下でリビアは約300年間平和と繁栄の最盛期を迎えました。 
             
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             20世紀に至り、トルコ全土が革命とバルカン戦争に忙殺されている間、1911年9月イタリアはトリポリを攻略、12年10月のトルコとの条約でリビアをイタリアの支配下としました。第二次世界大戦中、国土は列強の争う戦場となり、43年には連合軍がドイツ・イタリア軍を破り、英・仏軍が代わってリビアを占領しその軍政下に置きました。大戦後の49年11月、国連はリビアの独立を決議し、51年12月リビアはサヌーシ教団のイドリス1世を元首とする王国として独立しました。59年6月、エッソがキレナイカに大油田を発見して以来、相次いで有望な油田が発見されたが、旧態依然とした王政形態と根強い部族主義のため社会不安は募っていきました。 
             
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             69年9月に至り、イドリス国王がトルコで病気療養中、カダフィ大佐(当時大尉、28歳)を中心とする陸軍若手将校が無血クーデターを起こし、リビア・アラブ共和国を樹立しました。軍部はカダフィ大佐を議長(元首)とする構成員12名のRCC(Revolutionary
            Command Council 革命指導評議会)を設立し、これを国権の最高機関としました。 
             
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             革命政府は外国軍基地の撤去、国際石油資本の資産国有化等アラブ・ナショナリズムを奉じた政策を推し進めました。71年6月、アラブ社会主義者連合を結成し、一党支配体制を整えました。この体制の変革は「緑の革命」と称されています。77年3月には、いわゆる人民主義確立宣言、即ち「ジャマヒリア宣言」を採択して直接民主政治制度に移行、国名も「リビア・アラブ社会主義人民ジャマヒリア」に変更しました。  
             
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      |  3.国連制裁の停止と核兵器開発の廃棄 | 
    
    
      
      
        
          
             91年10月、フランス当局が89年9月のUTA航空機爆破事件の容疑者としてリビア人4名を国際手配し、引続き米、英両国が88年12月にスコットランド上空で起きたパンナム機爆破事件の容疑者として、2名のリビア情報機関員の身柄引渡しを要求しました。この関連において国連安保理は92年3月、安保理決議748に基づき国際線航空機のリビア発着と領空通過の禁止、武器の全面禁輸および外交関係の縮小を骨子とした石油輸出禁止を除く国連制裁措置を発動しました。 
             
             
             さらに93年11月に国連安保理は安保理決議883に基づき、リビアの政府、企業、国民に帰属する海外の資金や金融資産の部分的凍結、特定の石油関連機器・機材の禁輸、リビアに対する航空機の部品、エンジニア、保守サービス、航空機保険などの供給の禁止を柱とする制裁の追加を採択し、同年12月から実施されました。98年にリビア政府は、「スコットランド法に従ってスコットランドの裁判官によるオランダでの法廷で、2人の容疑者が裁判にかけられることを是認する」ことを表明し、99年4月この容疑者2名をオランダ当局に引き渡しました。 
             
             
             その結果、国連安保理は99年7月、10年近くにわたった対リビア国連制裁は「停止」されるに至りました。一方、2名のいわゆるロッカビー事件裁判は、2001年1月31日に第1審が結審し、うち1名は有罪で控訴、1名は無罪となりました。無罪判決を受けた者は帰国した。 
             
             
             さらに、リビアは、9,11テロ事件(2001年)やイラク戦争(2003年)を受けて、2003年に国際テロ対策への全面協力と核兵器開発を含む大量破壊兵器の全面的拠棄を宣言し、米国を含む国際社会もこれを、歓迎しました。これにより、リビアは国際社会への復帰を果たし、英、仏、独、伊の各首脳がリビアを訪問するなど、政治経済分野での交流が拡大しつつあります。 
             
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      |  4.リビアの石油 | 
    
    
      
      
        
          
            |  リビアにおける原油の確認埋蔵量は、99年1月現在295億バーレルとされ、世界第9位(アフリカで1位)、生産量は世界第13位(アフリカで2位)となっています。国連及び米国の対リビア制裁が、同国への外資参入や新しい技術の導入を妨げてきました。しかし、2次回収法などが取り入れられれば可採埋蔵量は630億から680億バーレルまで増加し、可採年数は56.4年ともいわれています。 | 
           
          
            
            
              
                
                
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                    石油収入は、リビアの輸出収入の9割以上を占め、国家財政の柱でもあります。特に昨今の原油価格の大幅な上昇は外貨の獲得に大きく寄与し、同国経済情勢を好転させたと見られます。リビア原油は非常に良質で、主として欧州諸国向けに最近年において約122万バーレル輸出されており、イタリアに約50%、ドイツに約25%、フランスに約5%を輸出、この3カ国でリビアの原油総輸出量の8割を占めています。米系企業は86年に米国政府の強い指示によりリビアより撤退したものの、その油井管理は米国政府による対リビア制裁が解除され米国企業がリビアに復帰できるまで、信託契約によりリビア側が管理しています。 
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            |  国連安保理制裁期間中もリビア原油は欧州諸国を中心に輸出されてきたが、増進回収設備による原油輸出は禁止されたため、油井の老朽化が進んでいるとされています。リビアとしては、新規油田の開発のみならず、既存油田の活性化により産油量を現在レベルの140万BPDを200万BPDにするべく、外国企業の参加を歓迎しています。例えば、2000年10月にトリポリで開催されたリビア国営石油公団による説明会には、日本の企業数社を含め、米系企業を除く世界各国の企業約40社が参加しました。リビアは、石油産業の上流部門が外国企業に対して解放されている数少ない国の一つであり、日本としても国家的観点から注視しています。リビア政府は、同国で石油事業に従事する外国企業に対して、リビア経済の発展に寄与する投資を求めていく方針と認められます。 | 
           
          
            | 1999年の国連制裁の解除に続き、2003年の核兵器開発計画の拠棄の後、リビア政府は新規油田の開発と既存油田のリハビリに積極的に取り組み、2005年には、2回にわたる新規油田の国際入札が行われました。 同年10月の第二回入札では、我が国企業も5社が6鉱区で新規開発権を獲得しました。今後も、既存油田のリハビリ等について国際入札が行われるといわれており、原油価格の急騰を受けて、リビアの石油資源開発への国際的な関心は益々高くなってくるでしょう。 | 
           
          
              
             
             
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      |  5.観光産業 |     
    
      
      
        
          
             リビアの多彩な歴史により、ローマ時代を中心にフエニキア、ギリシャ、スペイン、トルコ、イタリア等の遺跡が数多く存在し、今後の観光産業は大いに期待されています。すでに有名なものでも、首都トリポリ近郊のサプラータ遺跡(世界遺産)、ローマ帝国セプチュウス・セウェルスが自らの出身地にローマに匹敵する都を築いたと云われている保存状態の極めて良好なレプチス・マグナ(世界遺産)sがあります。トリポリ市内では、アッサラーヤルハムラ城塞、ジャマヒリア博物館、マルクス・アウレリウス帝凱旋門、アマハド・パシャ・モスクなどがあります。その他ではキレイネ遺跡(ベンガジ)、ギルサ遺跡(ミスラタ)、シルテ、セブハ等々に円形劇場、公共広場、寺院、古代建造物、浴場、マーケット、巨像、モザイク、墓などがあります。一方、最近一部完成済みのサハラ砂漠克服としてのマン・メイド・リバーにも内外の関心が集まりつつあります。 
             
            96年に外国人観光客の受け入れが再開され、トリポリにもいくつかのホテルが出来、宿泊客の意見、感想を聞く体制、すなわちリビア政府が本腰で観光産業を重視する姿勢が現れています。 
             
            現在のリビア訪問日本人観光客数は2,000名程度といわれています。 | 
           
          
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      | 6.リビアの対欧米関係の改善の動き | 
    
    
      
      
        
          
            | 1951年12月 | 
            リビア連邦王国として独立 | 
           
          
            | 1969年9月 | 
            カダフィ大尉(当時)によるクーデター | 
           
          
            | 1977年3月 | 
            社会主義人民リビア・アラブ国に | 
           
          
            | 1979年 | 
            米国、リビアをテロ支援国家に指定 | 
           
          
            | 1986年1月 | 
            米国、リビア経済措置発表 | 
           
          
            | 1986年4月 | 
            米軍等がリビア爆撃 | 
           
          
            | 1988年12月 | 
            米パンナム機爆破事件(ロッカビー事件) | 
           
          
            | 1989年9月 | 
            UTAフランス機爆破事件 | 
           
          
            | 1992年3月 | 
            国連安保理がパンナム機事件などにリビアが関与したとしてリビア制裁決議 | 
           
          
            | 1993年11月 | 
            国連安保理、制裁強化決議 | 
           
          
            | 1999年4月 | 
            国連安保理、リビアが同事件の容疑者を国連側に引き渡し、リビア制裁停止発表 | 
           
          
            | 2003年8月 | 
            リビア、同事件の遺族に補償金支払い開始 | 
           
          
            | 2003年9月 | 
            国連安保理、リビア制裁解除発表 | 
           
          
            | 2003年12月 | 
            米英が、リビアが核兵器などの廃棄を約束、国際機関の無条件査察に合意と発表 | 
           
          
            | 2004年1月 | 
            リビア、包括的核実験禁止条約(CTBT)批准 | 
           
          
            | 2004年10月 | 
            米国、対リビア制裁解除 | 
           
          
            | 2006年6月 | 
            米国、リビアをテロ支援国家リストから削除 | 
           
        
       
       
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